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死印の八敷×大門。

おはよう、
まだ眠らないでいて。

起きている時でさえ生気を感じられない容姿の人間が静かに眠る様は、ほとほと心臓に悪い。
赤い血が通っているとは思えないほど青白い肌に、黒く落ち窪んだ眼窩。寝乱れてボタンの外れた寝間着の隙間からは、必要最低限の肉さえ付いていない、肋骨の浮いた胸部がちらりと見える。
このまま棺に入れても何の違和感もないだろう――と、ベッドで眠る大門を見下ろしながら八敷は思う。
共に暮らすようになり、眠っているのではなく本当に死んでいるのではと危惧することも幾度かあった。
しかし呼びかけさえすれば、小声であってもきちんと聴き取り、必ず目覚めて応えてくれる。
その反復で、不安を感じることはなくなっていた。
今では見慣れた遺体じみた寝姿に、愛おしささえ感じている。

「大門」
八敷はいつものように、祈りを込めて呼びかけた。
閉ざされた瞼がするりと開き、吸い込まれるような黒曜石の瞳がこちらを穏やかに見つめるのを期待して暫し待ったが、大門は彫刻のように身動ぎ一つしない。

「……大門!」
申し訳なく思いつつ、腹に力を入れて大きく呼びかけた。
普段の大門なら、すぐさま跳ね起きて「急患かい?それとも火事?まさか、怪異ではないだろうね?」などと矢継ぎ早に尋ねてくるだろう。
八敷が想像の中の大門に謝っている間も、現実の大門は一切応えることはなかった。
心臓の鼓動が早まるのを感じた。口内がからからに乾いていく。
深く眠っているだけであってくれと強く願いながら、大門の顔を、首を、胸をじっと観察した。

――胸が上下していない。
その事実に、八敷は血の気がざぁっと音を立てて引いていくのを感じた。落ち着け、落ち着け――そう何度も自分に言い聞かせる。
まずは本当に呼吸が止まっているのか確認しなくては。そしてもし本当に止まっているのなら、そのまま人工呼吸と心臓マッサージをするしかない――大門から教わったやり方で。
八敷は大きく息を吸い込むと、大門の唇めがけて顔をぐっと近付けていった。鼻と鼻が触れ合うほどの位置で一度静止したが、それでもやはり空気の流れは感じられない。
最も恐れていた事態の実現に、心臓が癇癪を起こしたかのように暴れ出した。すぐにでも酸素を送り込まなければ、大門の命が危ない。
既に手遅れであるという可能性は、八敷の頭から蹴り出されていた。
自分がついていながら、彼を死なせるわけにはいかない。
覚悟を決めた八敷が、自身の唇を血の気のない唇に重ねようとした瞬間――ぱちり、と音がしそうな軽快さで、大門の瞼が開いた。

「大、門……」
八敷の声は、驚きのあまり酷く掠れていた。顔には安堵の色が滲む。
だが相手からすれば、朝からいきなり寝込みを襲おうとしたようにしか見えないだろう――と、八敷は早々に弁解を諦めて黙り込んだ。

「――しないの?」
軽蔑するどころか、嬉々たる微笑をたたえて囁く大門に、八敷は全身が火照るのを感じた。激しく鼓動し続けていた心臓の鼓動が、別の意味を伴い始める。
しかし、ここで誘惑に絡め取られてしまっては意味がない。八敷は首を横に振りつつ、素早く身を引いて立ち上がった。

「……死んでしまったのかと思って、確認を」
八敷の律儀な返答に、大門はふふ、と笑った。

「冗談だよ。心配かけてすまないね」
大門は不自由そうにゆっくりと上体を起こし、深々と吸って吐いてを繰り返した。
そして今度は拳を軽く握っては開く動作を繰り返したのち、小さく「よし」と呟いてから、八敷に向き直る。

「夢の中では死んでいたんだ。そういう時、起きたくても起きられなくなる。金縛りで息もできない。昔から、こういうことが稀にあるんだ。実際に死んだりは――今の所してないけど」
心配させないためか、軽い口ぶりで大門は語った。

「……頼むから、死なないでくれよ」
縋り付くように言う八敷に、大門は困ったように眉尻を下げて笑顔を作る。

「うん、せめて50まではね」

「あとたった6年じゃないか。もっと生きてくれ」

「そんなこと言って。君こそ、僕より先に死なないでくれよ」
諌め、祈り、乞うような大門の言葉に、八敷は口を噤んだ。安心させる為だけの嘘などは吐けない。八敷の黒い瞳が、鋭い光を帯びる。

「……保証はできない。まだあいつを完璧に封じられたわけじゃないからな」

「ほら。僕を心配してくれるのは嬉しいけど、客観的に見ても君の方が心配だ」

「すまない……」
項垂れる八敷に、大門は開きかけた口を閉じた。
二人の間に重い沈黙が流れる。
不意に大門は、八敷の背後上方に視線を投げると、眩しげに目を細めた。そして気分を切り替えるように息を一つ吐くと、穏やかな声で八敷に語りかけた。

「……僕は仕事柄、多くの死を見届けてきた。そして君は、多くの霊を視てきたことだろう。これまでも、そしてこれからもね。そんな僕らなら、生者がどうすべきかは分かっているはずだ」
柔和な表情の大門に対して、八敷は硬い表情のまま考え込んでいる。

「今を楽しんで生きよう、ってことさ」
肩の力が抜けるような大門の言葉に、八敷の顔もふっと綻んだ。

「……そうだな」
八敷が答え、大門も頷く。
大門は、パンと手を叩いてベッドを降り、すっくと立ち上がると、寝間着のシャツのボタン――既に一部は開いているが――を一つ一つ丁寧に外しながら、朗らかに話し出した。

「さあ!着替えたら、外食にでも行かないかい。この間、美味しい蕎麦屋さんを見つけてね。前に行ったイタリアンでもいい。僕は今なら何でも食べられる気がするよ。どうせなら中華なんてどうだろう?」
窓から差し込む朝日に照らされながら、自分がいかに健康であるかを演説するように喋る大門の姿に、八敷は喜びがふつふつと湧き上がるのを感じていた。

――生きている。大事な人間が、生きてここにいる。

一番下のボタンにほつれた糸が絡まって取れないらしく、もぞもぞと細長い指を動かしている姿すらも愛おしい。

「ああ、良いな。……でも、その前に」
八敷は俯いている大門の顎を指先で持ち上げ、自分の方を向かせる。
大門の「えっ」という驚きの声は、近づく影に呑まれた。
――ちゅ、と小鳥のさえずりのような音が弾ける。
突然のことに、大門は呆気にとられたまま固まっていた。

「おはよう、修治」
八敷は優しく微笑んだ。ここにある全てを祝福するように。

「生きていてくれて、ありがとう」
魂の最奥に暖かく染み渡るようなその声は、大門の耳にいつまでも木霊した。

「……ぅ、ぅう……君というやつは……」
大門は、ふらふらと後ろによろめいて八敷から距離を取り、残された感触のせいで火照ったままの唇を拳の側面で押さえ付けながら、羞恥とも歓喜ともつかない声で唸り始めた。
痩けた頬は暖かく色付き、溢れんばかりの生気をたたえている。最早その容姿を死者に喩えることなど、何者にも出来ないだろう。
大門は暫く、感情の奔流に堪えるように眉根を寄せていたが、突然だらんと上体を脱力させて項垂れた。

「お、おい? どうし…」

八敷が呼びかけるや否や、大門は寝間着の最後のボタンを力任せに引きちぎると、脱いだシャツを八敷に向かって放り投げた。

「おわっ」
避けきれなかった八敷の頭にシャツが覆い被さり、ハロウィンにありがちなお化けの仮装のような状態になる。
大門はその様を見て、少年のように笑った。

「……やっぱり長生きしようかな。100歳くらい。君と一緒にね」



-END-

2018.9.17