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※iOSアプリ版Deemo(初代) EDネタバレにつきクリア後の閲覧推奨。
Fluquorをゲーム内で演奏したときに受けた感動を詰め込んでいます。

さようなら、
愛しい君

別れへと続く碧い階段を、君を抱えて上っていく。
温度も重みもない僕の腕の中で、君の体だけは暖かく、小さな命の鼓動をせわしなく伝えてくる。もう二度とここに戻ることはないだろう温もりが、僕の胸にじんわりと染み渡った。

君は白紙の楽譜のように沈黙し、僕達が別れに一歩近付く度、僕の首に回した腕の力を強めていた。離れたくない、と確かな気持ちを伝えるように。
でもね、きっと僕の方が寂しがりなんだ。その証拠に、階段を上りきってもなおこの腕は、君の体をなかなか下ろしたがらない。
声も表情も影の中に隠してしまった僕の執着心は、君に悟られることはないのだろう。そのおかげで僕は、君の中で永遠に、格好良く在り続けられる。

君の体をそっと、冷たい床に下ろした。ぽっかりと天に開いた小さな四角い窓からは、暖かな風が吹き込んでいた。この世界では本来僕が感じることのない、爽やかな空気の流れだった。
光の下では今にも霧散してしまいそうな影の手で、白く柔らかな君の頬を撫でる。幼い顔に不釣り合いなほど聡明な光を湛えた、つぶらな黒い瞳は、今にも大粒の涙を零しそうに揺れていた。
君の泣きそうな顔を見る度に、僕は胸を締め付けられる。そんな時、いつも僕は--

「行かないで」

背を向けて階段を下り始めた時、押し殺した君の声が、静かな空間に響き渡った。
僕の足は止まった。君を抱き上げて、この階段を下りてしまいたかった。許されるなら、僕はここで永遠に君と、ピアノを奏でていたい。上手く弾けないと不機嫌に頬をふくらませ、上手く弾ければ満開の桜のように笑って、ころころ変わるその表情に僕は心動かされて--まだこの体が影に呑まれていなかった頃の、あの晴れの日のように、雨の日のように。

階段を下りた先で、白い仮面を被った少女が僕を見つめている。彼女は微かに首を横に振った。それで僕はまた、薄く切り出した水晶のような階段を降り始めた。
君が惑星になり、新たな重力を生み出してしまったかのように、僕の背中はずっと後ろに引っ張られているような気がした。君の小さな口から漏れる吐息が、鼓動が段々と遠ざかっていく。君の存在しない僕の視界に広がっているのは、死んだ空間だった。君はこの世界の様子が生き生きとし始めたことを喜んでいたけれど、生き生きとしていたのは君自身だったんだ。世界はずっと、穏やかに凍り付いて、眠っていた。

階段を下りきって君を振り仰ぐと、指先に乗せられそうなくらい小さくなってしまっていた。

ピアノの横に佇んでいる白い仮面の少女は、じっと君を見上げていた。彼女の黒い手は何か形のないものを握りつぶすように、握りしめられていた。

「どうして諦めてしまわなかったの」

誰ともなく呟かれたその言葉は、ピアノ椅子に腰を下ろそうとしていた僕の耳だけに届いた。
君に対してか、僕に対してか、彼女自身に対してか--この空間に存在する全てに対してか、僕にはわからなかった。

Fluquor、と題した楽譜が僕の前にあった。

君の瞳が悲しみの雨に濡れる時、僕はピアノを弾いた。僕の心が、いつでも君の心に寄り添っていることを伝えるために、最も良い方法だったから。君がうんと小さい頃から、そうしてきたのだ。
僕は白い鍵盤の上に、黒い指をのせ、君に伝えたい全ての想いを込めて--奏で始めた。君の耳に届ける、最後の旋律を。

死んでいた空間に、僕の心そのものである音色が満ちると、呼応するように、水晶の階段が碧く輝き始めた。かすかな地響きが、徐々にその音量を増していく。

僕はあの日、交通事故で命を落とした。もう少し運動神経が良ければ、君を抱きしめたまま身を投げて、トラックを躱せたのかもしれない。けれど、ピアノ以外のことはからっきしの僕には、避けられない運命だった。

本をあちこち散らかして片付けないままの僕に、「全くもう、だらしないんだから。ハンスが出来るのは、ピアノを弾くことだけね」と意地悪な口調で言う君の、慈愛に満ちた優しい微笑みが脳裏に蘇る。

ピアノに大きな亀裂が生じたが、僕は構わず弾き続けた。僕の全てを君に伝えなければならないから。
前にもこんなことがあったっけ、と僕は過去に思いを馳せる。生前、ピアノコンクールの最中に大きな地震に襲われたことがあった。それでも僕はペースを崩すことなく、ミスもなく最後まで弾き終えることができた。客席で聞く君に--せめてピアノを弾いている時くらいは--格好悪い姿を見せたくなかったから。会場を出た僕の手から、金色に輝くメダルを取り上げながら、「本当に、ハンスはハンスね!」そう言って無邪気に駆け出す君が、蒼い空の下、眩い光の中に消えていった。

君と出会ってからの大切な思い出の数々が、指先を伝い、音に溶けていく。

最後の音を弾き終えると、僕を覆っていた影は指先から霧散し、本来の姿が現れた。君に初めて見せる僕の本当の姿は、君にとっては初めて見るものじゃない。むしろ見慣れた--君が帰ろうとしている世界では、もう見ることの出来ない、僕の姿だ。
床は春の光に暖められた氷面鏡のようにひび割れていく。崩れた床の欠片が、重力に反して--いや、元々この世界の重力が君の世界とは逆だったのかもしれない--次々浮き上がっていく。
隣に佇む少女は、白い仮面を外し、フードを取って君を見上げた。現れたのは、君と全く同じ顔。彼女はもう一人の君だったのだ。

僕は君をまっすぐ見つめ、優しく微笑んだ。君がもう僕のことで悲しまないために、二度と僕の影を追わないように、今、僕が幸せで、満たされていることを伝えるために。そんな僕の姿は、目覚めゆく君の視界からはすでにかき消えてしまっているのかもしれないけれど。

全てを思い出した君は、眩い光に包まれて大粒の涙を零していた。

僕よりしっかりしている君は、すぐには無理かもしれないけれど、きっと前を向いて生きていける。
僕がいなくなっても、僕の書いた楽譜は、音に込められた想いは、君が帰ろうとしているその世界に存在し続ける。僕が音楽の才能を与えられたのは、若くして天に召される前に、君への想いを音の中に封じておけるように、という神様の配慮だったのかもしれない。

君が僕の遺した曲を奏でる時、僕もここで同じ曲を奏でている。
僕達はピアノを通して、いつでも想いを通じ合える。音楽は僕の世界と君の世界の境界を超え、魂を触れ合わせてくれる。

君はまだ、生きていなければならない。僕のなけなしの命を代償に護ることのできたその鼓動を、奏で続けなければならない。

だから、君へ。どうか、僕の腕の中にはもう戻らないように。安らかに眠る僕の耳へ、君の泣き声ではなく、美しい鍵盤の旋律を届けてくれますように。

さようなら、僕の愛する妹、アリス。



-END-

2015.6.7